アクセスカウンタ

野良狸の巣

プロフィール

ブログ名
野良狸の巣
ブログ紹介
このブログは政治・社会現象に関すること、思想的なことなどを書きます。
ツイッターはアカウント @re_ymzk で書いています。

トラックバック返しは基本的にしません。
「斜め上行く改憲論」(2009/06/07)展開中です。
zoom RSS

「シチズンフォー スノーデンの暴露」を見ました

2016/06/23 20:52

少し疲れていたので上映中眠ってしまわないか心配だったけど、がっつり起きて見ていた。スノーデン事件がどういうものか、基礎的な知識を取り入れて見に行ったのが良かったかもしれない。すんなり映画のストーリーに入っていけた。

スノーデンがNSAから奪った情報…世界のあらゆる人々がNSAなどの監視下にあるという…を、どういう形でジャーナリストに受け渡し、それを受け取ったジャーナリストがどのように公開したかという、リアルなドキュメンタリー。
電話の盗聴、インターネット通信などの傍受、そんなの陰謀論だ、と漠然と思っていることが全くの真実で現実だということが突きつけられる。犯罪者や犯罪予備軍、または重要人物でも何でもない、ありとあらゆる人々が対象だ。対象外はいない。映画では日本がどうだとは語られないのでピンと来ないかもしれないけど、アメリカ国内がそうで、アメリカ以外はもっと酷いと語っていた。

私にとって印象的だったのは、人物の人格を注目しすぎると、物事の焦点がぼやける、そのことが心配だ、とスノーデンが自分をメディアで公表する時に述べていたこと。問題にしたいことは、人物の人格とは別のこと。世界中の人々に、自分たちの私生活が監視され、それら膨大なデータが蓄積されていることや、いつ何時このデータが意図的に利用されるかわからないということ、このことを問題視して欲しい。これがスノーデンの暴露の目的だと思う。監視されていることを知っても驚きもせず、人々がそれを難なく受け入れてしまうことを恐れている。

人格を重視するな、そう主張されても、映画ではスノーデンの人格がとても表れている。人格見ちゃうよなと思いながら見ていた。とても大人なのだ。人格者で理屈が通っている。いわば哲学的でもあると思った。

スノーデンの人を見る目は確かだった。受け取ったジャーナリストは大胆に公表した、英ガーディアン紙で。そして米メディアCNNがそれを報道した。

映画を見て、私はまず気付いた。監視されていることを知っても仕方が無いとさっさと諦めてしまい、問題視しようとしない自分に。
これだけのプライバシーの侵害は犯罪だ。そんなことをする権利は誰にもないんだ。
私たちは人間としての尊厳を踏み躙られている。

先日、スノーデンがインターネットでのインタビューを受けたことを日本のマスコミも大きく報じた。とても良いことだったと思う。

これも先日だけど、可決された刑事訴訟法に関する改正案で、警察の盗聴の権利の拡大が日本では決まったことも知って欲しい。ヘイトスピーチ法と同時に可決された。この法案で日本の警察は誰の立会いも必要とせず、何の制限もなく、全ての人々の通信を傍受する権利を得た。

記事へトラックバック 0 / コメント 2


戦争責任者の問題

2016/06/15 22:55
戦争責任者の問題
伊丹万作

 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏につとめていたのであろう。
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
 こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
 しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
 すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
 しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
 いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
 しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
 たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
 もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。
 このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
 では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
 では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
 私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
 昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
 そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
 つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
 しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
 なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
 しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
 要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
 それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する羽目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
 最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
 ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
 そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
 しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疎通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
 なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
 では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)




底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
   1961(昭和36)年7月10日初版発行
   1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「映画春秋 創刊号」
   1946(昭和21)年8月
入力:鈴木厚司
校正:田中敬三
ファイル作成:
2006年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

記事へトラックバック / コメント


主体性のない世論

2016/02/03 21:49
私たち一般市民、国民の世論はマスコミ報道次第と私は思う。
マスコミが何かを(誰かを)悪と責めれば悪だと思い、責めなければその程度の罪なんだろうと受け取る。マスコミの判断を鵜呑みにする。
何がどう悪いのか受け手はよく分からなくても、マスコミが一斉に批判報道を続ければ余程悪いことが行われたのだろう、けしからぬことだと受け取る。
“マスゴミ”と普段マスコミ批判をする人でも、どうでもいいはずの情報にも割りと釣られる。(私だけは釣られないということもないし、私が的を外していることもあるだろう。)
ことほどさように、マスコミの論調がそのまま社会に浸透する。時に少し乖離することはあっても、滅多にないように私には思える。

現時点で支持されるだけの野党足りえていないということもあるけれど、私にとっての関心事はマスコミ報道って変だということなので、今後もマスコミ報道に対して、ああではないかこうではないかということを主張するスタンスを取る。
権力者のマスコミ包囲網が築かれている今、私たちは断崖絶壁にいるのだと思う。

記事へトラックバック / コメント


2015夏の国会前デモに対して

2015/09/29 16:26
(末尾に音声版あります。)

国会前のデモ。
これに初参加する前に、私は早稲田で行われた、田原牧さん白井聡さんの講演、対談を聞きに行った。6/19(金)。

そもそもデモに参加しようという思いを抱いたのは、津田大介さんが参加したのを見てからだった。その津田さんは恐らくだけど、小林節さんが参加したのを見てなのだろうと思う。こういう風に人は影響されていくものだ。

で、6/19はデモへ参加したいのと、講演、対談があることを知り、それを聞きに行きたいのとで迷って、デモへ参加する人は沢山いるけど、講演対談を聞く人はそれより少ないのだし、聞きに行こうと思ったのだった。

田原牧さんは“ジャスミンの残り香   ――「アラブの春」が変えたもの”の著者。
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-789005-1&mode=1

白井さんが来る前に田原さんの講演が始まった。その中で、ハッピーエンドで終わった革命はないということと、警察の言うことを粛々と聞いて行うデモなど頭が悪い、ということと、肝要なのは永遠の不服従である、と言ったことなどの話を聞いた。

ハッピーエンドで終わらない革命じゃ困ると国会前デモに対して私は思った。警察と対立して、暴動になることも困ると思った。
それは、映画「レ・ミゼラブル」を見たことによる影響でもあった。

「レ・ミゼラブル」は公開中に一度観に行って、ものすごく完璧に素晴らしいものという感想を抱いた訳ではなかった。何か、ざわざわするものを胸に残した。だけど、それを観終わった後に感想として表現することはちょっと難しかった。

今年になって、もう一度観に行くことになった。ざわざわしたものを確かめた感じになった。ジャベールが投身自殺するシーンが前も嫌だったこと、それと映画のラスト。投身自殺はやっぱり嫌だった。古い映画の「レ・ミゼラブル」(か、ああ無情?)の、ジャベールの死はあまり嫌いだった覚えはないのだけど。

そしてラストシーン。権力との闘争で死んだ仲間たちなどが勢ぞろいし、明るく高らかに歌を歌う。まるでハッピーエンドの終わり方のように。

「レ・ミゼラブル」は革命が失敗した映画だということを確認した。

デモ活動をあのような悲劇の失敗の運動にしたくないと私は思ったので、ハッピーエンドに終わらない革命も、警察と対立し、凄惨なことが起こるデモにもしたくないと、強く思った。
だから、警察と対峙するのに、むやみに対立するのはどうかと思い続けた。得策じゃないだろうと。

今夏の国会前デモ活動。いろいろ批判があるのも当然と言えば当然で、批判があるというのはそれだけ関心が高いということでもあるだろう。

私個人の体感しているものとしては、全体として、私はうまく行ったのじゃないかと思っている。いろいろな雑音も含めて。凄惨なことが起きなかった。非暴力に徹した。参加した人、中継を見た人、報道を見た人たちが思いを共有した。全国各地に行動は大きく広がった。国を越えて世界にまでも。

このデモは、この社会で、これからどう生きるかを考えさせる動きだったのだと思う。勿論、目的は「廃案」だった。その廃案はできなかった…というか、採決されてもいないものを採決したと言い張り、議事も残しておらず、そんなイカサマをまかり通したことをちゃっちゃと正すことが出来ない、この暗黒社会だ。

そんな暗黒社会を作り出したのがこの国の民主主義だ。この国の国民だ。それをどうにかしようとする戦いはこれからも続く。

何故か。この社会に生きているからだ。

眩暈のするような暗黒社会に、染まず倦まず、何か芯の通ったものを持って、生きたい、生き続けたい。


《音声版》(ノイジーですみません)







記事へトラックバック / コメント


古巣!

2015/09/29 15:10
パスワードも忘れちゃったよと思ってたけど、ログインできた!
政治の話をするならここがしやすいかな。


記事へトラックバック / コメント


口蹄疫問題の報道について

2010/05/17 17:45
 宮崎の口蹄疫問題が全国的に知られるようになりました。
 私は宮崎に親、親戚が住んでいるので、電話で現地がどういう状況なのか聞いていて、聞きかじり程度に知識があります。

 口蹄疫は牛、豚に感染をして、人間には感染しません。
 しかし、人間が移動をすることで、牛、豚に病原菌を他所から運んでしまう恐れがあります。それ故に宮崎県では消毒対策に追われているようです。

 よって、口蹄疫問題が話題になっても、むやみやたらに取材等で現地を飛んで歩いたりしてはいけないと思われます。農水省のホームページにもそのことが書かれています。

農林水産省/口蹄疫に関する情報
http://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/katiku_yobo/k_fmd/index.html

引用
《人が牛肉や豚肉を食べたり、牛乳を飲んだりしても口蹄疫にかかることはありませんが、感染している家畜の近くに行ったりすると、無意識のうちにウイルスを運んでしまうことがあるので、感染した家畜がいる農場に行くことは避けてください。》

 その点について、報道機関は正しい情報、誤解しない報道をするように神経を使っていただきたいと思います。
 気になるあまり、投稿させていただきました。


※以上は
ニュース 報道 | The JOURNAL
http://www.the-journal.jp/
の よろんず という欄に投稿した文です。

http://www.the-journal.jp/contents/yoronz/2010/03/post_63.html#comment-57082

このブログにも載せておきます。
ちなみに、野良狸ではなく一匹狸れい子と名乗っております。
記事へトラックバック 0 / コメント 2


普天間問題、見抜く側、だまされる側

2010/01/30 14:23
 日本の大概のマスメディアがきちんと書かない、きちんと伝えない、普天間問題の本質。アメリカ、日本両政府の本音。
 ただ、日本政府とは言っても、今や民主党政権と官僚たちの二つに分かれてしまっているから、この二つの食い違いが生じている。

 これらのこと、本質を読み取ろうとする心構えが今とても重要な時代だと思います。テレビニュースがトップで大事なことを言ってくると思っていたら大間違い。新聞の一面トップも勿論同様です。

 26日付の米有力紙ウォール・ストリート・ジャーナルに掲載された寄稿文のことが、琉球新報で紹介されています。

辺野古強行は「民意軽視」 名護市長選で米有力紙が寄稿文(2010年1月29日)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156507-storytopic-53.html
《 ハリス氏は、日本の戦後をこれまで支配してきた自民党から政権を受け継いだ民主党は、日米同盟に異議を唱えているのではなく、民主党主導による新たな日米関係像を模索していると指摘。
 自民党がこれまで国民よりも米国の利益を優先させた関係を重視してきた結果、両国の関係は対等性を失ったとし、新たな民主主義を望む国民の願いを反映させるためにも、核密約問題の解明と現行計画の見直しが進められていると説明した。
 ハリス氏は「両国の官僚が同盟を支配していた時代は終わった」とし、エリート官僚と民衆が相互に意思疎通を図るシステムの構築を提唱。米政府は、米軍への支援を要求する姿勢から脱却し、同盟を支えるために真に必要な要素が何かを考え、継続可能な日米同盟の基礎構築へ尽力すべきだと結んでいる。》
 

 あと、週刊朝日2/5号を開いて見ていて、えっ?!と思って食い入って読んだページがあります。

普天間移設の“本音”は筒抜けだった

 …というタイトル。何?誰の、どこの本音?
 本音というのは、結局民主党政権前の日本政府、外務省の本音な訳です。アメリカの諜報機関にメールや携帯の内容を傍受されて、本音が筒抜け状態だったという話です。
 私が関心を持ってしまうのは、そのセキュリティーの甘さの話ではなくて、本音が何かの部分である訳ですけれども。

 だって。その本音を知りたいのに、それ以外のプロパガンダをマスコミは提供してくるでしょう?日米同盟が大変だ、アメリカが怒っているぞ、って。それが腹が立つ訳ですよ。
 週刊朝日がそうだと言ってるんじゃないですよ。

 …しかし、しかーし。ここまで疑ってかかる人ばかりではないこの日本。おまけにマスコミは世論調査ならぬ世論操作結果をドカンドカンと発表してくる。まるで爆弾を落としているかのように。民主党ここまで支持率下がりましたと言いたいがために。

 さあて、この先、マスコミはどんなプロパガンダ爆弾を投下してくることでしょうねえ。
 辺野古に基地を作りたい人たちの意向によって。

 あなたは見抜ける側ですか?だまされる側ですか?

画像
週刊朝日は超イイです。

記事へトラックバック 2 / コメント 3


続きを見る

トップへ

月別リンク

野良狸の巣/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる